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1910年代から20年代(大正から昭和初期)にかけての日本は、資本主義の波をもろに受けた時代でした。日本の産業革命は急速に進み労働者の都市集
中・農村の疲幣、地主と小作人の争議等悪い点が次々と起こってきました。国分地方の農村も(80%以上が農民でしたが)特別な大地主以外は苦しい生活を強
いられました。農作物は安くで買いたたかれるし、小作料は値上げされるし日照りによるかんがい用水の不足や稲の病害虫の多発等で大変困りました。
そこへ1914年(大正3年)1月12日桜島が爆発したのです。今までにないような大爆発で天地鳴動し、降灰は激甚を極めました。広瀬の干拓地は水没し
水田耕作は不可能になったのです。水害を受けなかった田畑も降灰のため大変な被害を蒙ったのです。当時の冬の田畑には麦が植わっていたのですが灰で見えな
くなりそのままでは枯死するというありさまでした。そこで鹿児島県は護岸堤防工事をし復旧作業にとりかかり、併わせて農民の救済にも力を入れました。その
年のうちに復興資金1万3千円を無利子10年年賦で田畑所有者832名に貸し付けたのです。郷土の先輩赤塚直右衛門を中心とする村人たちはこのお金を無駄
にしませんでした。12月になると早速4,110円を出資金に振り向け、残額8,890円を償還準備積立金として東国分村産業組合を設立したのです。
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